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スターバックスがくれた僕の名前

僕は自分の名前が好きだ。ありふれてはいないし、それなりに品格もある。ギリシャ語では、戦勝者とか戴冠者という意味なのだ。僕は幾度か人から、エステバンらしい顔つきをしていると言われたことがある。自分の名前が見かけと調和しているのは有り難い。ガルシア・マルケス[1]は、短編小説『美しい水死人』の中で、この名前を一段と格上げしてくれた。作品の中で死亡する人物の名がエステバンなのだ。イサベル・アジェンデも『精霊達の家』の主人公にこの名を付けてくれた。僕の好きな作家の一人も、エステバンという名前だ。シュテファン・ツヴァイクのことで、シュテファンはエステバンのドイツ語版だ[2]。名前は、人にアイデンティティー(自己同一性)を授ける。その名をつけた人の成功や失敗を予め決めつけたり、その素地を作ってしまうことすらある。家族の話によれば、僕は元々、僕の父親やその父親、そのまた父親と同じ、ペドロという名前になるはずだった。ところが、母方の祖母が、あるメロドラマの役者に熱を上げ、エステバンでなければダメだ、と決めてしまったのだ。そのおかげで、僕は運命のくびきから解放されることになった。これまでの人生で、エステバンと名乗る他人には二人しか会ったことがないと思うが、それでいい。


ところが、ニューヨークで僕は、エステバン、でなくなってしまったのだ。


イントネーションが違う。人々はエステバーンと、手荒に後ろを引き伸ばしたように[1]発音するのだ。名前の三分の一がすでに自分のことではないみたいな気がして、変な感じだ。だが、僕の名前が記述され、そこで起きた象形のずれが言葉として発っせられると、もはやそれは全く自分でなくなり、他の人格が色々生まれてしまう。それでも、僕はそれを自分として受け入れなければならないのだ。これは最近のことだが、僕の自己同一性危機の体験は、マンハッタン一番街と17丁目の間にあるスターバックスで始まった。

大抵いつも早朝、七時半ごろに店に入ると、レジにいる痩せてメガネを掛けた「ウッディー・アレン」君、と僕が呼ぶ店員に迎えられる。最初に行ったのは二月の終わりで、歩道には沢山雪が積もり、あたりは暗かったことを覚えている。「ウッディー・アレン」君は僕の注文を取り、僕の名前を書き込み、僕は支払いを済ませる。普通、他のレジ係は親切に僕の名前を訊き直してくれるのだが、彼はそうしたためしがない。それから、僕は座って本を読んだ。数分後、褐色の肌をした[1]女性バリスタが、ダイナ・ワシントンのような声で[2]ピックアップカウンター から声を上げた。「アステファンさん!」「アステファンさん!」まだこの街に来たばかりのことで、僕の耳は様々な訛りや音、自分の名前がいろんな呼ばれ方をすることに慣れていなかった。僕は本に集中し続けた。三十分近くも経った頃、僕は本を閉じ、「ウッディー・アレン」君のところに行って、注文したラテの行方を尋ねた。すると、彼は不安げな声でこう聞いてきた。


「お名前は?」

「エステバンだよ!」と僕は答える。

彼はピックアップカウンターに探しに行った。いくつかのカップを持ち上げ、名前を読んでいき、それに行きあたった。彼は僕の方を見ると、説明するまでもなく明らかだ、と言いたげな大袈裟なジェスチャーをして[1]こう言った。

「ほら、ここにあるじゃないですか。アステファンさん!」


やれやれ、と僕は思った。それ以来、ニューヨークのスターバックスでの僕の名前は、エステボーン、アステファン、ステファン、スティーブ、ステヘン、ステラ、スティなど、その日レジ番をする店員の想像力次第で、何でもありだということに気がついた。自分のものでもない名前に返事をして、それを受容しなければならないのは、居心地の良いものではない。にも関わらず、この出来事は僕に、新しい人生を空想し自らの多重人格と遊ぶ自由も与えてくれた。それは、外国人であるということが、新しい人生を作り上げ誰か自分とは違う人間になるというその可能性を与えてくれるからなのだ。ニューヨークで新しいエステバンが自分を待っているのかどうか、それを知りたくて僕は時々スターバックスに出かける。

僕についた数々の名前の中で、一番のお気に入りはアステファン。愉快で衝動的な若者の姿が目に浮かぶ。ウェスト・ヴィレッジやブリーカー・ストリート、ブルックリンの夜歩きを楽しみ、バーや家や路上に座り込んだりして、知らない人達と話し込む。ポケットには数ドルの紙幣とメトロカードが入っているだけ。明け方になると、ギターを片手にどこかの地下鉄車両に乗り込み、リッカルド・コッチャンテの古い歌でも歌うのだろう。反対に、あまり好きになれないのは、スティーブという名前だ。地位とか社会的認知ばかりを追いかけて生きている退屈な奴を想像してしまう。彼を動かすのは、金だ。スティーブは、チリに住んでいた頃の、ある時期の自分を僕に思い出させ、アステファンは、ニューヨークでこんな風になりたい、と僕が望む姿だ。


だが、今日思いがけないことが起きた。


ピックアップカウンターに注文したコーヒーを受け取りに行き、スターバックスがつけてくれた名前を見たら、カップにはエステバン、と書かれているではないか。信じられず、馬鹿馬鹿しいけれど、僕はそこにあった全てのカップを、いま一度、二度、三度と繰り返し確かめた。それは、混乱した気持ちと言うか、多分、失望感だ。レジにいる店員に説明を求めたら、彼女の父親の名前もエステバンで、プエルトリコから来た家族だという。彼女は他にも何か言おうとしたが、僕にとってはもうこれっぽっちも関係なかった。慌てて店の外に出て、14丁目を歩く。耳には乱れた自分の足音が響き、メキシコ料理や中華料理、ピザやバーの店先からは、匂いや音が、蜃気楼のように次々と飛び込んでくる。幾つかの横道を、二番街、三番街を、それからアービング・プレイスを横切る。信号も、突き進む僕を迷惑がって避けようとする人達も、目には入らない。次の大通りで方向を変えて、ユニオンスクエアにあるスターバックスにようやく入店する。僕は注文の列に並ぶ。新しい自分と出会うことを期待しながら、ニューヨークで夢を見続けられるように。


ーマンハッタン、2019年4月

Esteban Escalona Caba, Manhattan 2019.-

Translation: Mina Koide



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